大学関係・学生の皆様へ

教室沿革・歴代教授

教室沿革

熊本大学に至る学校制の変遷と眼科

肥後地域(熊本)における医育史を俯瞰すると、その源泉は、宝暦6年の細川藩主重賢による医学寮「再春館」の創立に遡る。再春館は、細川重賢の命をうけて、名医として名高かった村井見朴が中心となって創設に至った。後年、世嗣治年をして「春雨」の二字を書せしめて、再春館に賜った故事を受けて、春雨堂とも呼ぶ。再春館は、細川藩の援助を受け、一盛一衰を経ながらも、肥後地域の医学の発展に大いなる貢献を果たして、115年間継続した。なお再春館において、医業は、本道(内科)医、外科医、眼科医、産科医又は婦科医、児科医、口科医、鍼灸按摩の七部門に分かれており、眼科学は、非常に古くから重要な医学領域であることが認識されている。

明治3年、熊本藩主細川護久は、藩政に大改革を行うと共に、西洋医学を興さんと再春館を廃して、古城に藩立医学所及び病院を置き、蘭人マンスフェルトを招聘した。これが古城医学校及び病院と称される医育施設である。熊本に西洋医学を導入したマンスフェルトは眼科を得意としていたという。眼科は、本科目の中で第一級第一科と教則に定められており、必須であった。明治4年の廃藩置県をうけて、官立となり医学校兼病院と改称した。翌明治5年10月には、文部省通達により、公立となった。明治8年11月、時の權令安岡良亮の命により、病院は下通町に移り、公立通町病院(通丁病院)と称して、この病院内に教場を設けて医学校の生徒もここに収容した。しかし、この医学校と公立通町病院は。明治10年2月の兵火により焼失した。西南の役における混乱は、諸種の悪疫を惹起したが、公立通町病院長であった田代文基は、急遽北岡の人家の借用し治療を行い、北岡仮病院と号した。一方で、明治9年、安岡県令は、手取町の人家を修繕して、県立医学校を設けていたが、西南戦争の戦火により通町病院とともに消失して、肥後地域の医療と医育機関が荒廃したのを憂えて、真宗大谷派管長大谷大教正が巨額の喜捨を行い、富岡県令がこれを受けて手取本町(てとりほんちょう)に病院を新築した。これが県立病院の起源とされ、同時に医学校も再興され、これが県立熊本医学校及び附属病院となる。明治21年、政府が地方税支弁の医学校を廃止することを決定したことを受けて、県立医学校は一旦廃された。附属病院は、独立して県立病院のみ残されたが、翌明治21年には県立病院も廃止され、私立病院となった。

上記の医学校廃止に先立って、明治19年に高岡元眞を会長とする伝習会なる私立医学教授所が設けられた。これは、春雨社内に設置されたが、春雨社は、主として漢方医によって組織された団体である。医学希望の子弟にして、学費欠乏のために県立熊本医学校に就学できぬ者や医学校を諸般の事情により退学せざるをえなかった者を救う目的で創立された。明治24年、三私立学校との合併により、九州学院が設置されたことを受けて、九州学院医学部となった。生徒騒動(後日の学園紛争のようなもの)と日清戦争の勃発を受けて、継続が不可能となった。

明治28年、県立病院が再興され、谷口長雄が病院長兼内科医長に、豊田虎之進が眼科医長に任命された。明治29年、県立病院長であった谷口長雄は、各部長および熊本在住の医師高岡、藤野らと協議して、県の補助を受け私立熊本医学校を設立した。この時、谷口病院長と協議をして、医学校の再興に尽力したのが、初代眼科教授の豊田虎之進である。私立熊本医学校は、明治37年4月、専門学校令を受けて、私立熊本医学専門学校となった。さらに大正8年6月、文部省令により私立の二字を削除して、熊本医学専門学校なり、大正11年5月、県立熊本医科大学として単科大学へ昇格した。昭和4年、文部省告示を受けて、熊本県立医科大学と改称され、その直後、同年5月(官立)熊本医科大学となり、昭和24年に熊本大学医学部となった。なお、平成15年4月、眼科学教室は、熊本大学大学院生命科学研究部視機能病態学分野に改称され、平成16年4月には、国立大学法人法に従って、国立大学法人熊本大学となった。その後、平成22年1月からは熊本大学大学院生命科学研究部視機能病態学分野となり、平成24年4月からは熊本大学大学院生命科学研究部眼科学分野(改称)、平成31年4月からは熊本大学大学院生命科学研究部眼科学講座(改称)となって現在に至る。また、同月、熊本大学医学部附属病院は熊本大学病院となった。

歴代教授

初代 豊田 虎之進教授 第二代 瀬戸 糾教授
第三代 中島 實教授 第四代 鹿児島 茂教授
第五代 筒井 徳光教授 第六代 須田 經宇教授
第七代 筒井 純教授 第八代 岡村 良一教授
第九代 根木 昭教授 第十代 谷原 秀信教授

豊田 虎之進教授

豊田 虎之進は、元治元年七月、和歌山県において、豊田家の長男として誕生した。御尊父は、俊庵花岡流外科の大家にして、又最も早く西洋医術を咀嚼して名声を馳せたと言われる。郷校坂本小学に学び、次いで堺市の学校に転校した。13歳にして大阪藤沢南岳先生の門に学び、15歳で和歌山県立医学校に入学し、わずか一年にして医学校を辞して、上京した。本郷にてドイツ語を修めて、東京帝国大学の医学部予科の入学試験に及第し、医科大学に進学して、明治25年12月に修了した。翌明治26年1月医科大学第二病院外科研究生となり、同5月眼科に転じて医科大学眼科学教室助手となり、「日本近代眼科の父」と称された河本重次郎教授(東京帝国大学初代眼科教授)に師事した。

豊田は、東京帝国大学浜田玄達教授および松浦有志太郎助手の推薦により、明治28年5月に熊本県立病院に眼科部長として熊本に着任している。豊田の着任時、熊本在住の眼科医行徳健男、大坪寅太とともに、熊本眼科集談会の前身である「眼科会」を発足させた。さらに「熊本県医学会雑誌」に「眼部帯状匐行疹の3例」「検影法」などの論文を次々と掲載して、眼科医としての活動を行うと共に、熊本の医育機関の設立に尽力した。明治29年9月、豊田は、谷口病院長、松浦、秋元および熊本在住の医師高岡、藤野らと協議して、県の補助を受け私立熊本医学校を設立した。谷口病院長がそのまま校長になった。豊田は、眼科学および眼科臨床講義のみでなく生理学と内科学各論も兼ねた。ちなみに行徳は、眼科学および薬物学、生理学、ドイツ語、大坪が眼科学と解剖学を担当した。当時の教授方法は、基礎医学は講義(学説)と実習、臨床医学は講義(学説)と臨床の両方面において、各担当の専門教師によって教授されたと記録されており、今日と大きな相違はない。教科書は、今田束著「実用解剖学」、馬島永徳著「生理学講本」など六書以外(例えば眼科学)は、皆教科書を用いないで教師の口授によった。明治30年11月に開校式が行われた。その後、明治34年3月には、県立病院が現在の熊本大学医学部附属病院の場所に移った。

豊田が私立熊本医学校の設立に奔走している時期に、日本眼科学会がその黎明を迎えつつあった。明治30年2月27日、東京帝国大学河本重次郎教授を会長にして第一回日本眼科学会が開催された。当時開業していた大西克知、須田卓や、及び川上元治郎の三人が、ヨーロッパ眼科界における学会を参考として、同様の学会設立を企画した。彼らは、東京大学河本教授に重ねて要請して、その承諾を得た。さらに、明治29年夏に、日本眼科学会創立趣意書が全国に配られて、ついに日本眼科学会創設に至った。豊田虎之進と行徳健男が最初の評議員として名を連ねている。

私立熊本医学校の設置と充実を受けて、医学専門学校、単科大学への昇格が学校の悲願となった。医事の視察と医学の蘊奥を究めるために、明治35年学校長谷口が欧州出張を命じられた。豊田は、谷口校長が明治35~36年に欧州出張した間に、校長と病院長を代理して務めた。明治36年、谷口が帰国するとともに、校長・病院長の職を谷口に戻し、次いで同年12月に豊田は、官命によりドイツへ出張している。この時、一旦郷里の和歌山に帰省して、翌明治37年1月に神戸から讃岐丸に乗船して、神戸港から彼の地への長い船旅に出発した。ドイツ留学は、二年間に及びフライブルグ大学のアキセンフェルドに学び、その後、ウートホーフ博士に師事した。その出張中は、行徳が眼科を担当した。豊田は、谷口校長の次に留学を命じられ、病院長・校長の不在時にその重責の代理を担った。谷口、豊田の二人に続いて、次々と主要な教授達が留学を命じられている。明治36年10月は、豊田は校長として、医学専門学校に適応するための設備をなす必要上、県知事に臨時補助を請願して成功している。このような医学校の設備充実と教育内容の向上を受けて、明治37年4月、熊本医学校は、私立熊本医学専門学校になった。開校時、豊田は眼科学教授と正式になった(以後は豊田教授と記す)。この時、行徳は眼科学講師となった。

翌明治38年12月、豊田教授がドイツ出張から帰国して、眼科学教授としての活動を開始した。明治40年(1907)には、豊田教授の欧文論文「Ueber zwei Faelle von chronischer Intoxikations Amblyopie mit voruebergehender vollstaendiger, aber nicht durch die Alkohol-resp. Tabak Intoxikation bedingter Erblidung nebst Sektionsbefund」が、Klinische Monatsblaetter fuer Augenheilkunde誌第45巻178頁に発表されており、熊本大学眼科メンバーが国際誌に論文を掲載した最初であると考えられる。また評議員、教頭として私立熊本医学専門学校の拡張充実に尽力した。

豊田教授は、大正6年冬に健康を害しながらも、些かも意に介することなく、一日たりとも欠勤することなかったといわれる。大正7年4月末をもって職を辞して、郷里の和歌山に帰り療養に努めたが、同年7月27日に55歳の生涯を閉じた。御生家の主屋(母屋)で最期の時を迎えられた。豊田教授の墓は、和歌山県那賀郡岩出町根来の高野山真言宗医王山智福院薬師寺境内にある。墓石正面には「豊田本家先祖累代之墓」と刻まれている。右側面には、「大正七年七月二十七日 豊福院泰観音済居士、元県立熊本病院眼科部長、元私立熊本医学専門学校教授、従六位医学士 豊田虎之進」、左側面に「大正八年七月建之 豊田武夫」と彫られている。熊本医学校友会雑誌に谷口長雄学校長が「豊田虎之進君小傳」と題した文章を寄せて、豊田教授を評して曰く、「君の公生涯廿余年間の事業は、悉く我熊本県民の為に注がれたり。君の如きは熊本県人にあらずして其実熊本県人に優れる恩人なり。而して我医学専門学校並びに東肥医学界の君に負う処のもの亦た最も大なりと云うべし。」

瀬戸 糾教授

瀬戸 糾は、明治20年12月に誕生した。大正元年12月に東京帝国大学医学部を卒業した。翌大正2年、1月に東京大医科大学副手、翌大正3年9月、助手となった。ついで、大正5年12月、青島守備軍民生部医官(高等官六等)として赴任した。初代教授の豊田虎之進が辞職してからは、廣瀬 束が午前中のみ部長代理として診療を行っていたが、大正7年9月に瀬戸が熊本医学専門学校教授に着任して、第二代眼科教授になった。その後、大正8年には、私立をとって、熊本医学専門学校、次いで翌大正10年、熊本県立医学専門学校へと移管され、大正11年に念願の熊本県立医科大学となった。

瀬戸教授は、学究的な熱心な研究者であった。殊に、生理学教室に於いて網膜電動力に関する研究をなしたことが記録されている。大正10年10月には、瀬戸教授は、「前房内への吸収に関する実験的補遺」という学位論文により、東京大から医学博士の称号を授与された。また眼科手術を得意としており、著書は、「図解眼科手術学 水晶体の手術」、「眼科手術」などは広く愛読された。大正11年にはドイツ留学しているが、その間に、第三代眼科教授に相当する中島 實が一年間の留守を預かった。帰国後、瀬戸は、大正13年4月、再び熊本医科大学教授となったが、翌大正14年11月に職を辞した。熊本において大江町九品寺に居を構え、一男四女をもうけられた。当時、学長選出に関連して、北里柴三郎翁や県知事を巻き込んで、熊本医科大学内が極めて紛糾していた。そのため、多数の教授が大正14年に退職している。瀬戸教授の辞職前後にも数人が時を同じくして職を退いており、学長排斥運動を含む大学内の紛擾が大きな背景であると思われる。

熊本市(病院橋前)で開業したが、非常に盛況であったという。しかし、昭和4年から東京帝国大学講師として石原 忍教授を補佐するとともに、三楽病院眼科医長を兼任した。瀬戸教授が乞われて東京大講師になるにあたって、送別会が行われた。昭和31年12月には、三楽病院眼科医長の職を奥瀬泰生に譲って職を辞した。

昭和34年1月10日、瀬戸教授は、胃癌のために享年73歳で逝去した。瀬戸教授のお墓は、東京都豊島区西巣鴨法華宗長徳山妙行寺の境内にある。墓石の正面には、「瀬戸家之墓」と掘られており、左側面には「昭和二十七年九月彼岸建之 施主 瀬戸 糾、同まつ子」とあり、教授ご夫妻が建立されたものである。墓石の後ろに置かれている回忌の度に備えられた卒塔婆に「慈眼院常糾日覚居士」の文字があり、瀬戸教授ご自身がこのお墓で永眠されておられることがわかる。

中島 實教授

中島 實は、明治26年9月14日長崎県島原市内屋敷に生まれた。中島 實の御祖父様寛道は、中島家に養子に入り、島原にて写真館をなした。寛道の長女である八重が久留米地方の眼科医であった鹿児島家から湊が養子になり中島家を継承した。次代の熊本大学眼科教授になる鹿児島 茂は、湊の甥に当たる。湊と八重の嗣子として中島 實が誕生した。明治45年3月長崎県立島原中学校を卒業して、同年7月に熊本にあった第五高等学校大学予科第三部入学し、大正4年7月に卒業した。東京帝国大学医科大学医学科に入学した。この際、陸上部に所属した。将来の進路として、外科と眼科のいずれの進路を選択するか迷っていたというが、鹿児島家の影響と家業として写真館を営む関連で、眼科、それも生化学面に関心をもったと思われる。大正8年12月東京帝国大学を卒業後、河本重次郎教授および石原 忍教授に師事し、翌大正9年1月、東京帝国大学医学部副手を嘱託された。同年2月26日には、医師免許が下附されている。大正10年10月には助手を任じられている。

大正11年9月、ドイツ留学中であった瀬戸 糾教授に代わり熊本県立医学専門学校講師、及び附属病院眼科部長に任じられている。同年12月、同専門学校教授に昇任した。この時期、中島教授は、幼少の島原時代からの知り合いである千年(旧姓 陶山)と結婚され、嗣子の中島 章(順天堂大学第4代眼科教授)が誕生している。中島 章は、後年、中島 實教授が留学している間、御母堂とともに熊本に戻り、王栄幼稚園に通っていたという。その後、瀬戸教授の帰国に伴い、翌大正12年11月には職を辞した。ちなみに、帰国した瀬戸教授から熊本大学眼科学教室を継承した鹿児島 茂教授は、中島 實教授の従兄弟にあたり、鹿児島教授のご子息 真は、金沢大学時代の中島教授の下で眼科を学んでいる。熊本在籍中の中島 實教授にとっては、若干満29歳での赴任であり、教授よりも年長の医局員に囲まれ、しかも瀬戸教授の留学中の留守を預かる立場が明確であったことから、人心掌握に随分と苦労されたと思われる。大正13年5月、旧制愛知医科大学(現 名古屋大学)に助教授として赴任している。「小口病」の発見者として高名な小口忠太教授のもとで活躍した。大正15年12月、「アドレナリンの眼圧下降機転」の論文により医学博士の学位を授与された。

昭和2年10月、旧制金沢医科大学(現 金沢大学)教授に就任した。これは、前任者である山田邦彦教授が弱冠39歳の若さでありながら、丹毒に罹られ腎臓病を併発して急逝されたことを受けて、急遽、旧制愛知医科大学助教授から赴任したものである。当時の文部省の方針を受けて、同年11月、眼科学研究のためにドイツ留学を命じられている。翌大正3年1月に金沢を出発して、翌2月には神戸解纜の賀茂丸にて渡欧し、ドイツに加えて、イタリア、アメリカに回り、昭和5年5月には帰国した。ワイゲルトのもとで視紅の光二重性、ワールブルグのもとで網膜の組織呼吸を研究して帰国して、これを眼生化学的研究に応用した。昭和11年昭和11年5月~昭和13年5月に、金沢医科大学附属病院長を務めており、学内での地位も重きをなす一方で、学者として生化学的研究では非常に優れた業績を残し、診療面でも充実して一つのピークをなした。しかし丁度この時期に日中戦争が開始され、日本は暗く長い混乱の時代を迎えようとしていた。これ以後は、戦争が暗い影を落とす診療、研究面での物資が不足し、若い教室員は出征するもの多く、苦しい教室運営を迫られることになる。なお金沢時代に、嗣子 章に加えて、一男一女をもうけた。その後、教室を倉知助教授に託して、名古屋帝国大学に赴任した。

昭和15年4月、小口忠太教授の定年退官後、名古屋帝国大学教授に転任した。中島教授は、名古屋帝国大学においても、管理運営の重責をこなしており、昭和16年5月9日、勲三等瑞宝章に叙せられており、同日、名古屋帝国大学学生主事(叙高等官三等)・学生課長に任じられ、さらに昭和23年12月には名古屋大学評議員を務めている。なお同昭和23年、第52回日本眼科学会総会において「網膜の化学」と題する特別講演を担当した。この特別講演に関しては、翌昭和24年、日本学術会議編纂により、医学綜報第三巻として「網膜の化学」が創元社から出版されている。

昭和25年6月、東京大学教授となった。庄司教授の定年退官に伴い東京大学教授の任に着いた。東京大学教授としての将来を嘱望されながらも、体調を崩して悪性黄疸の手術後、肝炎と思われる肝機能障害に至り、昭和26年2月26日、惜しまれつつ急逝した。死後、勲二等瑞宝章に叙せられた。中島教授の墓石は、郷里である長崎県島原市萩原一丁目 浄土宗演暢山快光院境内に安置されている。墓石正面には、「中島家累代之墓」と刻まれている。右側面には、「實誠院顕誉育造居士 昭和廿六年二月二十六日 中島 實行年 六十一才」と書かれている。墓石の後方遙かに島原城が望まれ、正面右側、南西方向には眉山を越えて、普賢岳・平成新山を眺めることが出来る。

鹿児島 茂教授

鹿児島 茂は、明治15年7月、鹿児島 始の長男として生まれた。幼児期に左眼を失い、入墨術を角膜に施されていたという。明治39年11月、千葉医専を卒業し、翌40年1月より42年2月まで東京大学眼科の河本重次郎教授に師事した。明治42年4月から45年2月までの三年間を大牟田市にて眼科開業していた。その後、大正5年5月より、叔父である鹿児島注連吉の援助で、東京大学病理の緒方知三郎教授について研究に従事して、この間にドイツにも留学した。大正10年1月からは、研究の傍ら、千葉医専講師を嘱託され、その後、教授に昇任して退職した。大正12年6月18日、「眼乾燥症及佝僂病トビタミン A」(日進医学、大正12年9&10)の論文にて、東京大学の学位を得た。同年4月、横浜十全病院眼科医長に赴任した。

大正15年1月に、瀬戸教授の後任として、第四代教授として熊本医科大学に赴任している。鹿児島教授の時代に、熊本医科大学にも学位審査権が与えられ、昭和2年11月より学位請求論文審査が開始された。県立鹿児島病院眼科部長であった広石甫の論文が12月に審査され、翌昭和3年3月に熊本医科大学として第一号の学位が授与された。昭和4年4月に、県立熊本医科大学を官立に移管するため熊本県立医大と改称され、翌5月には官立熊本医大となった。

昭和10年元旦に、熊本大学医学部附属病院玄関付近から出火して、臨床研究室と病院事務局が焼失した。眼科教室も甚大な被害を受けた。この時の悲惨な状況は、同月に集談会にて鹿児島教授が火災について報告する姿を、「自分が焼け跡に立った時は各所に火気強く多年蒐集せし標本、容易に入手し難き古書、教室員諸君が苦心して慣性したる論文又無し無しの金で漸く買ひ集めたる種々なる器械などが尚ほ白焔を上げて燃えつつあるも、何れも之を取出すこと能はず。只呆然と之を眺めつつ其の焼け尽くすを待つ状態にありしことは恰も溺死に瀕したる我が愛児を救くるに道なく、其の死を目撃しつつあるに等しく到底筆舌に尽し能はざる心境である。自分は親を失ひ、愛児を亡くしたる経験を有するも今回の如く衝動を得たる悲惨時は今迄に経験が無い。と半ばにして先生は万感胸に迫りたるものの如く、双眼に涙さへ浮べられ暫し言葉もなく吾等一同も亦暗涙を呑みたり。」と記録されていたことでもわかる。

鹿児島教授は、精力的な活動家であり、国内外の学界に広く出掛け、さらに検診旅行として県内だけではなく、大分県、宮崎県、鹿児島県などにも出掛けたことが鎮西医海に記録が残されている。また我が国で製造された眼鏡の蒐集をしており、現在も肥後医育記念館に保管されている鹿児島 茂「予が蒐集したる日本に於ける眼鏡」光 第86号, 1-21、昭和10)。昭和10年9月23日に発行された「鹿児島教授 開講十周年記念」の業績目録には、482編の論文目録が掲載されている。昭和14年に、熊本大学眼科学教室としては、南 熊太が助教授になったが、これが教室にとって始めての助教授となる。昭和16年4月には、鹿児島教授が会長となって、第45回日本眼科学会総会が開催された。同年、鹿児島教授は退官して、熊本市内九品寺にて眼科医院を開業した。鹿児島教授の退官にあたっての経緯および後任選考については、日本医事新報(昭和16年9月20日)に記載されている。曰く、「本邦眼科学界にその人ありと知られている熊本医大の鹿児島教授が「勉強しなくなった大学教授は速に教壇を去るべきである。自分は昨年来の病気で勉強ができなくなったから辞職する」と言う意の書面を残して、さっさと退官したという。当時定年制が曖昧であった中、機会あるごとに「六十歳定年」を成文化して教授陣の新陳代謝を促すべきであると論陣を張り、その他海外留学の割り振りなどを巡っての感情的対立などもあり、大学に嫌気がさして開業を志したと書かれている。

昭和20年には、空襲によって、医院・自宅ともに灰燼に帰した。そのため熊本市坪井町の上通り筋で開業をして、その後九品寺に戻った。盛業中、脳出血にて倒れ、一時軽快するも、昭和28年8月に享年71歳にて逝去した。同年は、連日の大雨により白川が氾濫し大水害が発生した年である。鹿児島教授の墓は、久留米市京町 臨済宗妙心寺派梅林禅寺境内にある。墓石の正面には、「鹿児島家霊塔(実際には島と塔は異体字を用いている)」と刻まれており、右側には、「昭和八年五月 鹿児島 茂建之」と書かれている。嗣子 鹿児島 真は、久留米市の九州医専を昭和12年3月に卒業して、金沢大学の中島教授の下で眼科を研修し、その後、鹿児島教授の死後、熊本市大江町にて眼科を継いだ。

筒井 徳光教授

筒井徳光は、明治28年5月7日、筒井八百珠の長男として誕生した。御尊父の八百珠は、明治22年に東京帝国大学を卒業して、当時は千葉医学専門学校外科教授をしていた。大正2年、第八高等学校に入学したが、同年に御尊父の八百珠は岡山医学専門学校校長として赴任した。

大正5年に高等学校を卒業して、大正9年12月には東京帝国大学医学部を卒業して、翌大正10年1月に、東京帝国大学医学部副手となり、眼科学教室に勤務して、河本重次郎教授の門下に名を連ねた。当時の東京帝国大学眼科学教室には、後年、筒井教授を岡山に呼び寄せることになる庄司義治(後年、岡山医科大学教授、九州帝国大学教授、東京帝国大学教授を歴任した)や中島 實(第三代熊本大眼科教授)が副手として在籍していた。次いで大正11年4月、広島県立病院眼科に部長として赴任した。同年3月は河本教授の退官の年に当たり、後任の石原 忍教授の着任前に当たり、筒井は河本教授だけに仕えた東京帝国大学眼科最後の門下生に当たる。

広島で3年余りを過ぎた頃、先輩の庄司義治が岡山医科大学教授に昇任し、庄司教授からの強い勧誘により、大正14年7月、岡山医科大学講師となった。もっとも、庄司教授は、その直後、翌大正15年5月には、九州帝国大学に大西教授の後任として転進したので、実質的に岡山で指導を受けたのは、1年間にも満たない期間であった。しかし、庄司教授との交流が筒井講師に与えた影響は大きかった。庄司教授は、岡山医大眼科教授の後任として日本医専の畑教授を推薦し、昭和2年から畑教授が留学するにあたって、昭和2年4月には助教授に昇任して教室主任代理を務めた。昭和4年1月、神戸乗船にて翌朝門司から九州帝国大学へ庄司教授を訪ね、紹介状をもらい、日本最後の夜を庄司教授の自宅で迎えたことが感激をもって記録されている。留学は、ライプチッヒのヘルテル眼科で1年間、チューリッヒのヘス博士(後日、ノーベル医学賞受賞)のもとで生理学について半年研究に従事した。その後、ベルリン、ウイーン、パリ、ロンドンを見学した。昭和6年5月に帰朝し、岡山医科大学より、「Uber das Vorkommen und die Bildung der Ehrlichschen Linie, AfA. Bd. S. 580. 1930」により学位を取得した。

昭和16年9月、筒井徳光が、岡山医大助教授から第5代教授として熊本大学に着任した。しかし同年12月には、太平洋戦争(第二次世界大戦)が勃発しており、非常な混乱の中の厳しい教室運営を余儀なくされた。この難局について、筒井教授自らが「南、三井助教授を始め、高安、若江、向坂、出田、緒方、越山の各講師、その他の男性はみな応召か、或いは軍関係の病院勤め・・・・研究は戦争目的の達成に直接役立つものにしぼられて官僚統制。近視、夜間視力の増強、それに航空医学があとから追加。」(熊本県眼科医会会報第10号)と記した惨状であった。さらに昭和20年7月には、空襲で大学は木造建築である教授室、医局、研究室、病室が全焼して、貴重な図書やカルテ、記録などがすべて失われたという。眼科入院患者の三人が犠牲になった。また広島の原爆では、応召中の若江が犠牲になったという。文中の南は、南 熊太、三井は三井幸彦を指す。このような苦難の時期を過ぎ、終戦後の混乱の冷めやらぬ昭和22年3月に、依願退職により職を辞した。退職にあたっては、戦争の混乱により、大学における研究での限界を感じたことが、大きく影響していたという。岡山の地を選ぶにあたっては、父八百珠の屋敷が戦火を逃れて残っていたことに加えて、生後直後の他界した娘の墓があったことが理由であろうと考えられている。

熊本大学を退職後は、昭和22年4月より、岡山にて開業して、同年従四位勲三等瑞宝章を授与された。この時期以降は、父八百珠の屋敷を改造して、筒井眼科となし、その最期を迎えるまでの時期を過ごした。昭和29年から昭和39年にわたって、岡山県眼科医会会長を務め、昭和30年~33年に岡山市医師会長となった。その後、昭和40年、70歳を迎えたのを期に、開業を辞め、岡山県成人病センター、日赤血液センターなどで、健診車に乗り、郡部を巡回して奉仕活動としての医療活動に従事した。昭和51年6月18日、心筋梗塞にて逝去された。当時、胸部痛を自覚した徳光は、健診車で検査すると心筋梗塞の発症を検出され、子息である純教授の紹介で、すぐに川崎医大に入院したものの、その最期を迎えた。徳光は、敬虔なクリスチャンであり、内村鑑三の無教会キリスト教派の岡山聖書研究会に所属して、終始信仰の人であった。また温厚篤実の学者であり、己を律するに厳、他に対しては恕、しかもリベラリストの風ありで、常に朗らかであったという(「徳光記」庄司義治著「筒井先生を偲ぶ」より)。

筒井教授の墓石は、岡山市門田本町にある市営東山墓地に設置されている。墓石の正面には「筒井家」とだけ彫られており、右側面に「1977 筒井 純建之」とある。ご子息である筒井 純 第七代教授が建立され、共に永眠されておられる。その墓石は、無宗教のものであるが、父八百珠もまた無教会派のクリスチャンであり、無教会派であり形式を嫌った徳光の考えもあり、その墓石もまた同様に、モノリスのような無宗教の墓石である。

須田 經宇教授

須田經宇は、明治36年5月22日、高名な須田明々堂を継ぐ第二代当主である須田卓彌(旧字体・手書き文字作成が必要)の三男として誕生した。須田明々堂および須田家は、眼科における一大名家と言える。須田家は、そもそも長野県伊那の出身であり、世々医を業とした。経哲の代になり、江戸へ出て、外科学を学んで、日本橋に開業して、明治3年には大学少助教授となった。信州高遠藩の眼科医細井要人の子であり、後に須田経哲の養子となった須田哲造がシュルツ、スクリバに師事して眼科を修め、小石川区春日町に須田明々堂眼科を開設した。須田卓彌を養子に迎えて、姪の佐々木静子を嫁がせた。これが須田經宇の両親にあたる。須田明々堂は、多数の門下生を抱えた。中島 實(後年、第三代熊本大眼科教授)が助教授として補佐した小口忠太(名古屋帝国大学教授)は、須田明々堂の門下であるとともに東京帝国大学河本重次郎教授の門下でもある。須田明々堂は、東京帝国大学と並ぶ日本眼科の巨大な二つの眼科における医育拠点として、両者を重複して師事した人が多い。大正13年3月、第二高等学校理科乙類を卒業し、次いで昭和3年3月に東京帝国大学医学部を卒業して、昭和3年4月に副手となり、石原 忍教授に師事した。同年6月12日、医師免許を取得している。昭和4年には、東京帝国大学助手となり、翌昭和5年4月に新潟医科大学講師として赴任し、翌昭和6年10月には、弱冠27歳で新潟医科大学助教授に昇任して、熊谷直樹教授を補佐した。当時、熊谷教授から緑内障を専門するように指導された。その後、昭和11年5月に帝国女子医学薬学専門学校教授に着任しており、昭和14年には新潟医科大学で学位を「ヴィタミンB2欠乏ト視器トノ関係ニ就テノ実験的研究」の論文(日眼 43:743-791, 昭14)により取得している。

須田經宇は、須田昭和22年9月、帝国女子医学薬学専門学校教授から第六代教授として熊本大学に赴任した。後日、須田教授は着任当初を思い出して、「一昼夜以上の汽車で熊本駅に到着して、出迎えの自動車に乗って焼け野原を通ってその日の宿に向かう途中、白川の向こうに見える病院外来の建物と図書館を指さして、あれが大学だと同乗の人からいわれたときは、だまされているのではないかとさえ思った位にあわれな貧弱な建物がポツンとたっているに過ぎなかった。もう帰ろうかと思った。」と語ったという。須田教授が着任した時点では、専門部教授(医学部助教授を兼任)として三井幸彦がいた。助手として、鎌尾 保、日隈俊一、福島真二郎であった。昭和24年、国立大学設置法により、熊本医科大学は熊本大学医学部となり、同年9月に第一期生が入学した。昭和25年3月には臨時附属医学専門部が廃止された。このように須田教授の時代は、戦後の国立大学制度が整備され、総合大学としての熊本大学の幕開けを迎えた。なお、昭和26年11月26日~12月2日に三井助教授は、エジプトのアレキサンドリア及びカイロにおけるWHOトラコーマ委員会第一回協議会で、教室の研究結果をもとに、トラコーマ治療法についての原案を発表し、原案通りに採決された。

須田教授は、日本緑内障研究の中心的な人物として知られており、昭和27年、第56回日本眼科学会総会では、「緑内障の早期診断に就て」と題する宿題報告を担当した(原著、日眼 56:933-958, 昭27)。昭和28年6月26日には、連日の大雨によって熊本大学医学部附属病院前を流れる白川が氾濫して、大水害が発生した。この時、附属病院地下の薬局は濁流に呑み込まれ全滅した。そのため、水害後の白内障手術で少数ながら感染症が発生したという記録がある。昭和31年2月には、日本学術会議員に、日本眼科学会より推薦されて、当選している。同年4月に第60回日本眼科学会総会において、須田教授は宿題報告「緑内障シンポジウム」において「眼球圧迫試験の再検討」を講演したが、「須田氏圧迫試験」は、緑内障の有力な診断法として高く評価された。

昭和32年には、須田教授が欧米を漫遊したという記録がある。昭和33年の三井助教授の徳島大学教授就任に伴い、同年緒方 鐘が助教授に昇任した。須田教授は、昭和34年4月から二年間、熊本大学医学部附属病院長を務めた。同年には、熊本県医師会理事や熊本大学評議員も務めている。緒方助教授が、昭和35年、東京歯科大学附属病院眼科教授として転任したのを受けて東京大学 徳田久弥助教授が赴任した。昭和40年4月、須田教授が会長として第69回日本眼科学会総会が熊本の地で開催され、この学会の特別講演として須田教授が「原発緑内障の診断と治療」を講演し、多大の好評を博した。臨床を大切にされた須田教授は、徳田助教授と相談の上、教室員のみによる抄読会でなく、教室の先輩も交えた症例検討会を立案され、昭和36年6月17日から、須田教授就任後に入局したメンバーを集めて、「大抄読会」の名称で開始された。その後、会の開催は日曜日午後に定められるようになり、「茶話会」、「臨床研究会」などと変わったが、定年直前の昭和44年2月16日まで合計19回開催された。須田教授の退官後は、「無障会」の名前で継続された。また昭和41年8月、村田忠彦がドイツ・ボン大学ワイゲリン教授およびホッグゥイン教授の下に留学し、水晶体の生化学的研究に従事した。昭和43年5月に「緑内障の研究とその臨床の功績」により第18回熊日社会賞(学術部門)を受賞した。昭和44年には、須田教授退官記念第450回熊本眼科集談会が開催され、熊本大眼科同窓会が発足した。同年3月に須田教授は、定年退官を迎えられ、6月には、その貢献を讃えられて名誉教授の称号を授与されるとともに、門下の井上洋一の協力を得て、渋谷区神宮前に居を構えるとともに、同所に東京緑内障クリニック研究室を開設されて、生涯を緑内障研究に捧げられた。翌昭和45年には日本緑内障研究会会長に就任した。日本緑内障研究会は、学閥にとらわれず、緑内障に志を有する研究者を全国から結集した。当時の緑内障診療は、大学によって治療方針から手術適応まで混乱した状況であったのが、緑内障研究会を通じて、国内でのコンセンサスを構築して、活発な議論を行う基盤を形成した。当時の学会の雰囲気からは、非常にユニークな研究会であった。昭和62年末までの長きにわたってその要職を務めた。また昭和51年には、日本眼科医会会長に就任して、昭和56年3月まで務めた。昭和53年には、財団法人一新会理事長にも就任している。昭和55年、喜寿を迎えられた須田教授を祝って講演会・祝宴が持たれた。また昭和62年4月15日、昭和62年4月、私財を投じて、公益信託 須田經宇緑内障治療研究奨励基金を設立した。本基金は、現在に至っても、須田賞として知られており、緑内障研究者の登竜門として大きな意義を認められている。須田賞設立にあたっては、井上洋一、大坪正美、行徳勝明、布田龍佑らが参画した。

須田教授は、昭和63年9月25日(同窓会報の履歴には24日とあり)、閉塞性黄疸のため東京都中央病院にて永眠された。四女をもうけられ、そのうちの一人は眼科医に嫁いだ。学術保健衛生への功労を顕彰され、正四位・勲二等瑞宝章を授与された。同年10月10日に、東京大学眼科、日本眼科医会、一新会、失明予防協会および熊本大学眼科による合同葬が東京都信濃町千日谷会堂で執り行われた。須田教授の墓は、東京都豊島区駒込5丁目にある東京都営染井霊園にある。墓は生け垣に囲まれ、霊園内の道路より一段と高くなっており、石段を上がった正面と、その右側に墓石がある。正面の墓石には、「須田家歴世之墓」、右側の墓石には「須田氏六眷族之墓」と書かれている。須田教授は、右側の墓に永眠されている。

筒井 純教授

筒井 純は、大正12年4月21日、筒井徳光(第五代熊本大眼科教授)の嫡子として誕生した。御尊父の筒井徳光は、当時、広島県立病院に赴任していた時期である。その後、大正14年7月には父徳光が岡山医科大学に転任しており、その後中学校までは、岡山で過ごした。昭和20年9月、熊本医科大学附属医学専門部を卒業して、薬理学教室助手となった。当時、海軍軍医少尉として勤務している。その後、薬理学から眼科学教室に転じて、熊本大学眼科学教室の研究生となられた。昭和22年1月、筒井徳光教授が熊本医科大学を依願退職されたのに前後して、岡山医科大学眼科副手となった。昭和22年3月に、父徳光が熊本大学を退職するにあたって、父に替わり、研究の道に本格的に入ることを志したという(ご子息 筒井研・公子ご夫妻談)。その後、昭和24年5月、助手となり、昭和27年10月、「トラコーマ病原体の生物化学的研究」によって医学博士の学位を取得した。昭和28年5月に講師へと昇任した。同昭和28年にはトラコーマの研究により、シブレー賞を受賞している。昭和29年8月からは文部省在外研究員フルブライト交換研究生としてアイオワ大学眼科学教室へ留学している。帰国後、昭和32年4月、岡山労災病院眼科部長となった。昭和40年には、第69回日本眼科学会総会にて宿題報告「角膜移植」を担当した。

昭和44年9月、筒井 純が第七代教授として熊本大学に赴任した。筒井 純教授は、熊本大学眼科に専門部門制度を導入した、筒井 純教授自らは神経眼科部門、須田教授の築いた緑内障部門は澤田 惇(後日の宮崎医科大学初代眼科教授)を担当した。赴任後翌昭和45年に、視能訓練士の深井小久子が視能矯正部門、村田忠彦が眼透明組織部門、昭和46年に岡村良一(後日、第八代眼科教授となる)が炎症性疾患および眼病理部門、豊福(出田)秀尚が網膜部門を担当した。昭和48年11月日本臨床眼科学会において筒井教授は、「斜視学における神経眼科的アプローチ」と題して特別講演を担当した。筒井教授は、水俣病に積極的に取り組み、水俣病の神経眼科的・神経病理学的研究を行っている。この間に、検診の迅速化と簡素化のために、「集団的検診用視野眼球運動計」を考案、製品化している。筒井教授は、水俣病検診を行うと共に昭和47年4月から昭和49年まで、熊本県公害被害者認定審査会並びに熊本県公害健康被害認定審査会(通称 水俣病審査会)委員を委嘱されている。筒井教授は、五年間に満たない短い熊本大学眼科教授在任期間を経て、昭和49年5月末日に職を辞して、神経眼科学教室を新設のために川崎医科大学に転出した。

当時、川崎医科大学は山本覚次教授が昭和46年6月に川崎医科大学の代替病院である川崎病院で開設した。その後、昭和48年12月より、倉敷市に附属病院が開設されたが、総員4名で二病院を運営していた。筒井 純教授と深井小久子視能訓練士は、これに合流して、神経眼科部門を担当した。このような神経眼科部門専門の教授として公にしたことは初めてであり、画期的な出来事であった。祖父八百珠、父徳光が最期を過ごした同じ屋敷に居を構えた。神戸大学、北里大学、兵庫医科大学、慈恵医科大学などの神経眼科研究者と共に、現在の神経眼科学会の基盤を作られた。昭和51年には、筒井教授は、第14回日本神経眼科学会を主催し、神経眼科的研究に精力的に取り組み、昭和59年、第88回日本眼科学会総会で宿題報告「神経眼科の諸問題」を担当して、「視覚誘発動的脳電位図法、基礎と臨床応用」を発表した。さらに、昭和63年、第92回日本眼科学会総会で特別講演「眼から脳へ、脳から眼へ、ムービングトポグラフィーの研究」を担当した。筒井教授は、川崎医大の門下から、「常に考え、試し、止まらない」生涯であったと評されている。きわめて活動的であり、厳しく、よく怒り、多彩な関心を持って生涯を駆け抜けたことが偲ばれる。

平成元年には、川崎医科大学名誉教授に就任するとともに、川崎医療短期大学教授となった、川崎医療福祉大学設立準備学科長感覚矯正学となり、平成3年4月には川崎医療福祉大学学科長感覚矯正学となった。しかし感覚矯正学が端緒に就いた直後、平成3年4月5日、心筋梗塞で急遽、川崎医科大学附属病院に入院の後、4月23日には様態が急変して、享年69歳にてご逝去された。最期は、国際学会への出張を希望して退院を予定したはずの検査時に生じた急な様態変化であったという。筒井 純教授は、岡山市門田本町にある市営東山墓地に筒井家の墓を設け、御尊父の筒井徳光教授と共に永眠されておられる。

岡村 良一教授

岡村良一は、昭和6年4月1日に、長崎県佐世保市にて誕生した。昭和31年に熊本大学医学部を卒業して、インターンを経て、熊本大学眼科学教室に入局して須田經宇教授に師事した。須田教授時代(昭和36年)、咽頭結膜熱の研究により、熊本大学から学位を授与された。その後、須田教授体制の下で、助手、講師を歴任した。須田教授退官後、筒井 純教授の着任を待って、昭和44年10月にドイツのマールブルグ大学ローエン教授研究室に留学した。留学時代は、虹彩血管構築の電子顕微鏡的研究に従事した。昭和46年3月に帰国して、当時、筒井 純教授の下で導入された専門部門制度において、炎症性疾患および眼病理部門を担当した。昭和48年8月、岡村良一が助教授になった。

岡村良一は、昭和49年12月、熊本大学眼科助教授から第八代教授に就任した。就任にあたって、筒井 純教授の設立した専門部制度を引き継いで、岡村助教授が炎症性疾患部門をそのまま担当した。澤田 惇、布田龍佑が緑内障部門、村田が眼透明組織部門、豊福(出田)が網膜部門、緒方弘義が神経眼科・斜視弱視部門を担当した。しかし、筒井教授時代から水俣病の認定検診・審査が社会的に大きな問題となっていた。特に、昭和48年の頃から、水俣病の認定に、眼球運動や視野などの神経眼科的所見が重要視され、昭和49年1月から岡村助教授が水俣病の検診を行うようになった。さらに、同年11月から前任の筒井 純教授のあとを受けて、水俣病審査会委員を委嘱された。岡村助教授は、このため従来の専門領域であったぶどう膜炎研究を中断して、水俣病に本格的に取り組むために、眼科診療も神経眼科部門に専念する状況となった。昭和53年11月には、第16回日本神経眼科学会が熊本の地で開催されたが、この際有機水銀中毒症に関するシンポジウムが行われた。

岡村教授の時代は、筒井教授の突然の退官で始まり、水俣病問題により研究課題を変更せざるを得ないという事情があった。また大学院生を基礎講座に派遣することが義務づけられていた学内事情があり、これが研究活動にも大きな影響を与えた。当時、岡崎基礎生物学研究所江口吾朗教授(後日、熊本大学の学長に就任された)を含めて、解剖学教室、薬理学教室、微生物学教室などに大学院生が派遣された。岡村教授は、平成6年3月末日に職を辞した。現在は、熊本市帯山にて暮らし、熊本における眼科史・医学史探訪を続けている。

根木 昭教授

根木 昭は、昭和26年3月20日、兵庫県姫路市綿町にて根木家の次男として誕生する。御祖父様にあたる金一は柔道家であり、講道館八段であり、柔道普及を目して姫路の地に来た。金一は、近代柔道の普及に努める傍らで、接骨医を家業となしていた。御尊父 佑一は、その影響によると思われるが外科医を務めておられた。開業後は皮膚科も兼任して、彼の長男 信は家業である皮膚科を継いだ。次男である根木 昭は、城巽小学校、中学高校を通じて姫路の男子校であった淳心学院に通った。昭和44年、京都大学医学部に入学したが、当時は、学園紛争が激化して東京大学入試が中止されたという激動の時代であった。昭和50年6月、京都大学医学部眼科学教室に入局して、当時教授に就任したばかりの塚原 勇教授に師事した。翌51年1月、大学病院で研修を終えて、和歌山日赤病院眼科に一人医長で赴任した。同51年9月、神戸中央市民病院眼科にて半年赴任した。その後、京都大学医学部附属病院に非常勤医員として戻り、学園紛争の混乱が収まり始めた当時の状況の中で、実験を開始した。昭和53年、京都大学大学院に入学して、本田孔士講師(後日、塚原教授の後任として京都大学教授)の指導下で、網膜電図研究に従事した。当時の京都大学眼科学教室内の研究会議は厳しい議論が交わされることで有名であったが、その中で切磋琢磨されていった。その後、昭和56年9月、留学はスタンフォード大学 Marmor博士の指導を受けて、網膜色素上皮のポンプ機能について研究した。四年間の留学時期を経て、昭和60年に帰国して大学院に復学して、学位を取得した。学位取得後、京都大学助手、続いて講師になった。この当時、手術顕微鏡の網膜光障害に関する臨床研究をしており、高く評価されている。

昭和63年1月、京都大学講師から天理よろづ相談所病院眼科に副部長として赴任した。当時の天理よろづ相談所病院眼科は、永田 誠部長(現 永田眼科理事長)の指導下に、日本眼科界の手術教育の一大拠点として知られていた。当時、根木は副部長でありながら、永田部長の陪席を一年間半務めて、臨床研修をさらにリニューアルした。それまでは、むしろ基礎研究が中心であった根木の眼科医としてのキャリアが、天理よろづ相談所病院での研修を経て、きわめて臨床志向の強いスタイルに変貌した。永田の臨床指導の特徴は、臨床をサイエンスとしてきわめて堅実な論理の組み立てで構築することを特徴としており、真摯な診療態度と惜しみなく勉強しそれを教育することに情熱を持ち続けたことであろう。その後、平成5年12月、京都大学助教授として戻った。

平成6年9月、京都大学医学部助教授から第九代教授として熊本大学に就任した。根木教授は、感覚網膜・網膜色素上皮間の相互作用を研究課題としていた。当時、硝子体手術の液体・ガス置換による網膜障害の臨床研究とそれに関連した基礎研究を行った。熊本大学においては、網膜硝子体疾患、緑内障、白内障などの眼科手術の一線に立ち、膨大な手術件数と診療を精力的にこなした。また医学教育に真剣に取り組み、深夜まで臨床カンファレンスで厳しく指導した。教育や診療に対して厳しい教授である一方で、親しみやすい温厚な人格者として慕われている。平成12年に神戸大学教授に、一年間の兼任時代を経て、転任した。

谷原 秀信教授

谷原秀信は、昭和60年大学卒業後、京都大学眼科学教室に入局して、本田孔士教授に師事した。昭和61年3月、天理よろづ相談所病院眼科に赴任して、当時の永田 誠部長の指導下で臨床研修を積んだ。当時、永田部長が精力的に取り組んでいたトラベクロトミーや隅角癒着解離術などの緑内障手術の成績をまとめて発表している。臨床研修の後、昭和64年(平成元年)1月に京都大学助手として大学に戻り、同年12月には米国南カリフォルニア大学ドヘニー眼研究所の鈴木信太郎博士の下で、細胞接着分子カドヘリンの遺伝子クローニングと機能解析を行った。平成5年11月、マイアミ大学バスコムパーマー眼研究所留学に、文部省在外研究員として留学して、イナナ博士の指導を受けた。同年、京都大学博士(医学)を取得した。平成 6年9月、京都大学助手に復職し、翌平成7年、日本眼科学会学術奨励賞を受賞した。平成8年1月には講師に昇任した。平成11年2月、眼科副部長(部長代行)として天理よろづ相談所病院に赴任して、同年9月、同病院眼科部長に昇任した。須田經宇(第六代熊本大眼科教授)が設置した須田賞を同年に受賞している。京都大学・天理時代の研究課題としては、緑内障手術の改良と評価、細胞接着分子や細胞外マトリックスの研究、神経保護薬物療法の開発などを手がけた。

平成13年2月、熊本大学眼科の第十代教授となった。平成15年4月からは、大学院部局化を受けて、熊本大学大学院生命科学研究部視機能病態学教授、平成24年4月からは名称変更によって、眼科学講座教授となって現在に至る。現在の教室における主要な研究課題としては、緑内障や網膜硝子体疾患に対する分子基盤に基づく病態解明と新しい治療法の開発、手術治療の開発および臨床評価、細胞接着分子や生理活性因子、上皮間葉形質転換に関する基盤研究、神経保護・再生医療研究、アミロイドーシス眼合併症などがある。平成17年3月、第109回日本眼科学会総会にて宿題報告「新しい眼薬物療法」を担当して、「分子基盤に基づいた眼疾患の理解と新しい眼薬物療法 」を講演した(これによって平成19年に日本眼科学会評議員会賞を受賞した)。さらに平成19年9月、第27回日本眼薬理学会にて特別講演「緑内障の創薬戦略」、平成24年10月、第66回日本臨床眼科学会にて特別講演「緑内障治療の新しい展開を目指して」、平成26年1月、第37回日本眼科手術学会にて特別講演「緑内障手術のサイエンス」を担当した。

谷原教授時代の医局においては、平成23年、稲谷大講師(当時)が、福井大学教授として転出した。稲谷講師は、熊本大学在籍中、平成20年、日本緑内障学会須田賞を「続発緑内障の手術治療に関する臨床研究と基礎研究」で受賞するとともに、平成21年、第113回日本眼科学会総会にて評議員会指名講演(旧称 宿題報告)「眼疾患と動物モデル」を担当した。さらに彼は、第13回ロート賞(平成20年)、Nakajima Award 2009(平成21年)、World Association Research Award(平成23年)などを受賞した。川路隆博講師は、平成21年に上原記念生命科学財団フェローシップ、続いて平成23年、日本眼科学会学術奨励賞を受賞し、翌年の第116回日本眼科学会総会にて、受賞記念講演「家族性トランスサイレチン眼アミロイドーシスにおける網膜光凝固術の効果」を担当した。井上俊洋講師は、平成22年、今井賞を「ステロイドによる房水流出抵抗上昇に関わる細胞内シグナルの解析」によって、平成23年、日本緑内障学会須田賞を「MCP-1が房水流出に与える影響の研究」によって、そして平成25年、Glaucoma Summer CampのYoung Investigator Awardを「Prospective Assessment of Filtration Openings on the Scleral Flap by 3D AS-OCT(三次元前眼部OCTによる強膜弁濾過経路の前向き研究)」によって受賞した。さらに平成26年、井上俊洋講師は、第108回日本眼科学会総会の評議員会指名講演(旧称 宿題報告)「眼科手術のサイエンス」の担当者に選出された。同じく平成26年、岩尾圭一郎助教は、Glaucoma Summer CampのYoung Investigator Awardを「The Kruppel-like Factor Gene Target Dusp14 Regulates Axon Growth and Regeneration in Retinal Ganglion Cells(網膜神経節細胞の軸索伸張と再生におけるKLF遺伝子標的Dusp14の制御)」によって受賞し、2年連続で熊本大学眼科から受賞者が選ばれた。また、平成22年に上原記念生命科学財団フェローシップを受賞している。

谷原教授は、平成15年度の熊本大学医学部附属病院・副病院長(診療活動及び病院経営担当)、大学院教育委員会・副委員長を務めた。翌平成16年には、大学院教育委員会・委員長となった。平成18-19年度には、熊本大学の教育研究評議会・評議員。平成18-20年度には、学術振興会学術システム研究センター・医歯薬学専門研究員。平成20-21年度、医学薬学研究部・副研究部長。平成21-22年度の副病院長(先端医療担当)。平成22-23年度、国立大学附属病院長会議グランドデザイン委員会・委員。平成25-26年度の熊本大学医学部附属病院・病院長に就任した。さらに病院長として、熊本大学医学部附属病院連携病院長懇談会を創設し、その会長に就任。平成25年12月、熊本県で新設された地域医療支援機構の副理事長となり、翌平成26年4月からは理事長に就任した。熊本大学においては、平成25-26年度、政策調整会議委員、教育研究評議会評議員、大学改革実行プラン推進プロジェクト委員会委員、学長選考会議委員などを務めた。さらに平成26年、熊本大学拠点形成研究A「超高齢社会に向けた神経・感覚運動科学領域における新規治療開発拠点の形成」が採択され、拠点リーダーとなる。また同年、熊本県医療対策協議会委員、同県在宅医療連携体制検討協議会委員、熊本市医療都市ネットワーク懇話会々員、国立大学附属病院臨床研究推進会議幹事などを務めた。