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研修だより

「研修を終えるに当たって」

熊本大学医学部附属病院群臨床研修医 B2プログラム
増田 翔太

 父が医師であったことから幼少期より自分も医師になろうと考え、浪人は経たものの熊本大学医学部医学科に入学し6年の後、思い返せばもう2年ほど前、私は熊本大学医学部医学科を下から数えた方が早い順位で卒業し、どうにかこうにか医師国家試験にも合格することができ医師としての第一歩を踏み出しました。
 
 私のプログラムではまず最初の6か月間は熊大病院で内科系の研修、続いて1年間は市中病院で、その後最後の半年をまた大学病院で研修を行うというものでした。

  初めの大学での6か月は、消化器内科を3か月間、神経内科を1か月間、代謝内科を2か月間というスケジュールで研修を行いました。

 最初の消化器内科では上部消化管検査や腹部超音波検査の手技、肝細胞がんの診療などを行いましたがそれ以上に、初めて医師として現場に立つにあたり分からないことが多すぎて、右往左往したのを覚えています。医療面接の行い方や一般身体所見の取り方、汎用薬の名前と使い方、採血の手技など今思えば当たり前に行っている、診療における初歩の初歩もおぼつかないものでした。また、学生時代に学んできた知識と、現場で求められるものの乖離にも驚きました。特に、当時3年目だった先輩医師から「消化器内科の診療のこと、医学的なことを学ぶのも大事だけど、まずは手紙の書き方とか、コンサルトの仕方を覚えるといい」と言われたことを良く覚えています。当時は紹介状を書いたり、コンサルトシートを書くことはあまり診療と関係がないようで、このことにいま一つ納得がいかなかったのですが、これは後に人吉で研修を行い各診療科や開業医の先生方とやり取りを多くするにあたり非常に的確なアドバイスであったと思うようになりました。
 
 その後は神経内科、代謝内科で各科の診療を学んだ後、人吉医療センター(旧人吉総合病院)での研修に移りました。ここでは外科系を中心に研修を行いましたが、大学病院と異なり、common diseaseの診療に多くあたりました。救急の日当直が月に5回程度あり、救急患者の診療や時間外の診療で診療科の垣根を越えて様々な疾患の診療を行ってきました。ここで現場の医師としての初期診療能力の多くを培うことができたかと思います。学生時代に見学に行ったとある病院の、当時研修2年目の先輩医師が「飛行機なんかで、『お医者様はいませんか?』と言われたときに手を挙げようかなと思うレベルの診療はできるようになった」と言っていたのをよく覚えていて、私も研修にあたってそのような診療レベルに至れることを目標としていたのですが、これは人吉での1年間の生活で達成できたかと感じています。

 また、人吉は大学と異なりスタッフも充実していない中、医師、コメディカルがとても密に連携して診療にあたっており、彼らとのコミュニケーションの重要性やそれぞれの役割についても大いに学ぶことができたと思います。なかなか各診療科や職種ごとの敷居が高い大学ではできなかった、貴重な経験であったと思っています。

 人吉で1年間の研修を終えた後は再び大学病院に戻り、精神科、呼吸器外科、泌尿器科で研修を行っています。これまでの研修医生活で研修医として必須のカリキュラムは概ね消化できていたので、ここでは自分の興味のある診療科を中心に選択しました。特に学生時代から最も興味を持っていた呼吸器外科では、手術を主とした肺がんや胸腺腫の診療に携わることができ、今後の進路を考えるうえで大いに有用であったと思います。拙いながらも術者として数件、自らで手術を執刀することができたのがとても記憶に残っています。

 また、私は卒業と同時に大学院に入学する「柴三郎プログラム」というものに入っています。これは初期臨床研修を行いながら大学院のカリキュラムを消化し、将来の研究社を養成するプログラムで、研修を行いながら大学院生としても履修することで早くに学位取得が可能となるものです。この2年間はあくまで臨床研修がメインであったので、現在のところはe-learningで講義の単位の取得と、研究に向けた準備を行う程度になっていますが、他の研修医と同様の研修を行いながら今後のための準備をしっかりと行うことができたと考えています。

 ほとんどの研修医の同僚は今後の3年目はいずれかの診療科に入局、あるいは市中病院のレジデントとして引き続き臨床に携わり、専門医を取ったりと勤しんでいくことと思いますが、私はまず大学院を修了しようと考えております。その後の進路はそのまま研究を続けていくか、再び臨床の現場に戻るかは決めかねているところではありますが、この2年間の経験を忘れることなく、今後も精進していく所存です。