研修だより

「初期研修を振り返って」

熊本大学医学部附属病院群臨床研修医 Bプログラム
石松 翔子

 自分が熊本大学医学部に入学できたことも医師国家試験に合格したことも未だに夢のようですが、もうすぐ二年間の研修が終わろうとしています。初期研修医としてのこの二年間は、先生方やコメディカルの方、同期、たくさんの方々の支えがあってとても充実した研修生活を送ることができました。改めまして、この場をお借りして感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。ありがとうございました。そして、これまでの研修期間を振り返って感じたことをここに記していきたいと思います。
 
 私は熊本大学医学部付属病院のBプログラムで研修を行いました。それは研修一年目の四月から九月は大学病院で、十月から市中病院で一年間(その間に一か月の地域医療)、初期研修二年目の十月にまた大学病院に戻るというプログラムでした。

 まず熊本大学での最初の半年では、内科を三か月、選択科を三か月回り、治療をはじめ、これからどんどん進歩し増えていく医学的情報をどのようなツールで自分の引き出しにまとめておくかなど、様々なことを教えていただきました。同期の数も多く、その存在に救われたことがたくさんありました。右も左も分からないことだらけで落ち込んだり不安になったりしたときには、愚痴を聞いてもらい支えてもらえたからこそ乗り越えられたと思っています。

 そして研修一年目の十月からは、熊本市民病院を選択し研修させていただきました。市中病院で研修する利点は、やはり大学ではなかなか診ることができないような身近にある病気を診ることができる点にあると思います。大学病院ではアカデミックなことや最新の医療を学ぶことができましたが、研修医は救急やICUを選択して回らない限り当直をする機会がありません。市民病院に来た頃、私はまだ救急とICUのどちらも回っておらず、初めての当直の日はとても緊張しました。未だに救急は苦手です。しかし先生やコメディカルの方々が親切で、医療従事者の先輩としていろいろとご指導してくださり、大変勉強になりました。

 そんな中、市民病院での充実していた私の研修生活を揺るがす出来事が起こりました。熊本大地震です。四月十四日の夜、前震が起こったとき、私は病院の職員宿舎の自分の部屋にいました。余震が続き、宿舎の建物が倒壊するかもしれないということで、研修医同期のグループラインで連絡を取り合い、携帯や財布、飲み物、保存の効く食料など最低限必要なものだけを持って病院に行ったところ、すでにトリアージが始まっている状況でした。すぐにその中に加わりましたが、研修を一年終えただけの自分にできることは少なく、ひたすら外来受付前で縫合処置をしました。ひっきりなしに患者さんが来られ、ようやく一段落ついたのは十五日の朝四時頃。宿舎も危険かもしれない状態であり、疲労感もあり、明け方からしばらく同期と一緒に外来二階の待合室の長椅子で寝ました。十五日は幾ばくか状況は落ち着いてきておりましたが、まだまだ患者さんが多かったために、一日中救急外来にいました。夜間は緊急措置が取られることになり、救外の当直の医師を増やし、私はもともとウォークイン当直の日だったので変わらなかったですが、他の研修医も時間交代で当直することとなりました。夜になっても地震後の片づけをして怪我したなど、患者さんが途切れることはありませんでした。十六日の夜一時頃にようやく落ち着き、少し仮眠をとろうと救外の診察室で机に突っ伏していたところ、二回目の地震、本震が起こりました。診察室から出てみると、物はぐちゃぐちゃに倒れ、患者さんが恐怖で泣いていました。上級医の先生とその場を落ち着かせようとしていたとき、病棟から看護師さんがひどく慌てて降りてきて一言。「病院が崩壊する恐れがあります」と。自分がこれまで生きてきた中でこれほどまでに衝撃を受けた言葉はありませんでした。結局、救外には当直の者が大勢いるため、病棟の患者さんの避難を手伝ってほしいとのことで、それからは病院中で患者さんの大避難が始まりました。自分の携帯で足元を照らしながら歩ける患者さんは近くにある湖東中学校へ避難誘導しました。術後の患者さんで歩くのが難しい方は、(電気が切れ、エレベーターも乗れないためにストレッチャーは使えず)シーツに乗せ四人掛かりで抱えて階段を降りながら安全な場所まで運びました。病室は八階まであり、暗闇の中をひたすら何回も階段で往復しました。私の実家は東区にあり、震源地に近く、不安は募りました。家に家族の安否を確認しに行きたい思いを抱えながら、自分もいつ崩壊するか分からない建物の中で避難誘導を続けるという状況は本当に精神的にきつかったです。最悪の状況でしたが、幸いなことに最悪の事態にはならず、やっと明け方に無事に患者さん全員を避難・転院できたときには一気に体の力が抜けました。

 入院患者もゼロになり、それからは二週間余り市役所や体育館をはじめとした避難所巡りをすることとなりました。避難所では医者として風邪や腹痛、褥瘡からDVTまで診察しましたが、どちらかというと精神的に参っている方に寄り添ってお話を聞くということが主でした。あとは避難所の衛生面や、食事状況なども確認し、指導も行いました。医者の新米の中の新米である私は経験も知識も少なく、できることなど限られており、無力を感じることもありましたが、避難している方から「ありがとう、あなたに話を聞いてもらって楽になった」と言われた時にはこんな私でも役に立てたようで嬉しかったです。このような体験は二度とないことを願いますが、自分の中で大変貴重な経験をしたと思っています。

 そんな避難所巡りの生活をしていた中、このまま市民病院での研修は不可能であり、今後の研修をどうするかを決めるために大学に召集されました。私の研修Bプログラムでは大学病院で研修をすることはできないと言われたため、周りの先生方のご助言を受けて五月半ばから八月末まで八代の熊本総合病院で研修をすることに決めました。八代に行くのは初めてで、不安を抱えながら熊本総合病院での研修がスタートしました。大学病院や市民病院に比べ、研修医二年目が私を含めて三人、一年目が四人と少なく、女性も私だけでとても心細かったのですが、先生方などがお食事会や飲み会を沢山開いてくださったおかげで、早く病院に馴染むことができたように思います。熊本総合病院は一応地域医療ということになっています。やや高齢者が多い印象はありましたが、診る疾患としては市中病院とあまり変わらず、CT・MRIをはじめとする設備も整っており、市中病院と遜色なく診療することができました。三ヶ月という短い期間でしたが、充実した研修生活を送ることができました。

 九月は一ヶ月間地域医療として鹿児島の出水総合医療センターに行きました。出水は鶴をみることができるということで有名な場所なのですが、残念ながら私が行った時期はちょうど鶴はいませんでした。
私の地域医療研修はまず野田診療所からスタートしました。野田診療所ではこれまでの研修医生活の中で一番多く内視鏡やエコー検査をさせていただきました。ほぼ初心者に近い私でしたが、先生がマンツーマンで後ろからずっと指導してくださり、重要臓器を簡単にですが自分でみることができるようになったと思います。高尾野診療所では研修医生活で初めて外来をさせていただきました。定期フォローの方が主でしたが、そのような方をどのように診察するべきかが意外と分からず、時間がかかってしまい、患者さんをお待たせしてしまうことも多々ありました。それでも先生のご指導の下、少しずつ患者さん各々の診察の重要なポイントを考えて診察できるようになり、まだまだではありますが最初に比べるとスムーズに外来を回せるようになったと思います。上場診療所では身近に病院どころか医師がいないという正にへき地医療の在り方をみることができました。ほとんど医療器具がない状況で、問診と身体診察がいかに重要かということを再確認しました。 院内研修では循環器内科を中心に、看護・臨床検査・臨床工学・リハビリテーション・医療安全管理・地域医療連携などの講義や体験をさせて頂きました。循環器内科では初日から患者さんを2人もち、自分で治療方針を考えて先生に相談しながら治療を進めていくことができました。お忙しい中、検査手技や検査結果、薬の選択も含めた治療方針などについて丁寧に教えていただき、大変勉強になりました。また、今までほとんどみる機会がなかった様々な職種の方々のお仕事についても講義・体験させていただきました。

 一ヶ月の地域医療を終え、十月からまた再び大学病院へ戻ってきました。この段階で進路を迷っていたため、大学病院では自分の進路を決めるために必要な科を選択しました。期限ギリギリまで悩みましたが、これから皮膚科医としての道を歩み始めることを決意しました。

 あと数か月で研修生活が終わります。まだまだ知識・技術・経験すべてが不足しており、今後本当に先生方のように医師としてやっていけるのか不安は山ほどありますが、自分が選択した道を信じて精一杯進んでいきたいと思います。最後になりましたが、丁寧にご指導いただいた先生方、関係者の皆様方、誠にありがとうございました。また未熟で至らない点も多いと思いますが、これからもどうぞご指導よろしくお願いいたします。