熊本大学医学部附属病院群臨床研修医 Aプログラム
赤星 里佳
はじめに、私は初期臨床研修修了後の進路として「医系技官」という選択をしました。今後、臨床を離れることにはなりますが、2年間の研修は決して無駄ではなく、むしろ貴重な財産になるはずです。たった2年ではありますが、「病院」という現場で「医師」として働き、患者や他の医療従事者と接することで学んだこと、感じたことはたくさんあります。臨床を少々かじった程度に過ぎませんが、この経験を必ず新たな舞台でも生かしていきたいと思っています。
私は1年目を熊本大学附属病院、2年目を熊本赤十字病院で研修させていただきました。研修開始1週目で担当患者が急変して亡くなり、その直後には熊本地震を経験するなど怒涛の幕開けでした。地震発生後しばらくは自宅の水道・電気などライフラインが途絶えていたため、院内で寝泊りする日々が続きました。近隣のコンビニやスーパーでは水・食料をはじめ生活物資はすべて品切れ状態で、かといって遠方まで調達に行く余裕もなく、家族や友人が持ち込んでくれたものや病院で提供されるものだけが頼りでした。地震が発生したとき、まずは自分の命を守ることが最優先です。しかし、医療従事者として他者の命を守るという使命もあります。多くの方が県外へ非難する中、我々は何の迷いもなく現地に残って診療を続けました。医師免許を取得しただけでまだ何もできない私たちではありましたが、その姿勢こそが医師としての大きな第一歩になったのではないかと思います。また、本震発生時には安否確認の連絡を取り合ったり、水や食料を共有したりなど同期の存在を大きく感じました。
最初の1~2ヶ月は担当患者の病歴や経過を把握することに加えて、指示入れやオーダーなど担当医としてすべきことを一から指導していただきました。はじめはカルテの使い方にも慣れず、指導医に指示されたことをこなすだけで精いっぱいでした。自分では何も判断できないからといって指導医に言われるがままになってしまい、なぜこの薬剤をこの容量で使用するのか、この検査の目的は何なのか、その意図まで理解することができていませんでした。そのため、カンファレンスや回診で理解不足を露呈してしまうこともあり、担当医としての自覚が足りないことを痛感しました。自分だけでは分からないこと、できないことがあるのは当然、それでも自らが主体となって患者を診るという意識と責任感が求められていることを認識しました。まずは自分で考えて、指導医とディスカッションすることで自分に足りないものに気づき、一つ一つ習得しながら成長することができました。患者プレゼンテーションをする機会も多く、簡潔かつポイントを押さえた発表は難しく、質問に対して返答できず指導医に助け舟を出してもらうこともありましたが、回数を重ねるごとに上達したのではないかと思っています。いかに患者のことを把握しているのかがよく表れるので、その点でも自分の成長が試される場だったと思います。
1年次12月の産婦人科研修で印象に残っていることがあります。子宮体癌疑いで受診された20代後半の女性がいました。前医にて薬物治療で効果がなく手術を勧められましたが、挙児希望があり、セカンドオピニオンで来院されました。私は初診時の問診を担当させていただき、その後の診察で陪席につかせていただきました。私自身は「挙児希望」という部分がどうしても引っかかって手術を避けることはできないだろうかという思いがありました。しかし、先生のご判断はやはり手術を勧めるというものでした。ホルモン異常が関与している可能性もあるため、まずはホルモン検査を行って異常があれば治療介入するが、異常がなければ手術を行った方が良いというお話をされました。妊娠・出産は女性にとってとても重要なことです。世間一般では結婚そして妊娠・出産が女性の幸せの象徴とされているため、独身や子どもがいないと負け組とされ劣等感を抱くことがあるかもしれません。しかし、それだけが幸せの形とは限りません。子どもが産めなくても幸せにはなれます。何事も命あってこそ、まずは自分の命を大切にしてほしいという先生のお言葉が心に響きました。病気に直面したとき、命と引き換えに何かを諦めなければならないことがあります。音楽プロデューサーのつんくさんも喉頭声帯癌のため声帯を摘出して声を失いました。命を優先するためといえども生半可ではない勇気と覚悟がいると思います。私には彼らの気持ちすべてを推し量ることはできません。それでも彼らの気持ちと向き合い、新たな人生の一歩を踏み出せるように導いていくことは医師として大切な役割なのだと思いました。
2年次の7月には愛媛県西部にある宇和島徳洲会病院で1ヶ月間研修させていただきました。ここでは救急・入院診療だけではなく、内科外来や検診、訪問診療にも携わらせていただきました。入院患者の平均年齢は90歳にせまるもので、入院を契機に施設入所や介護申請を希望される方も多く、書類作成や退院・転院調整には大変苦慮しました。単に疾患に対して治療を施すだけでなく、特に高齢者では入院時から退院後の生活にも配慮した対応が必要であることを痛感しました。その上でも理学療法士や社会福祉士など他職種の協力が絶対不可欠であり、大変お世話になりました。赴任前は救急外来だけで一般外来の経験はなかったため、内科外来では初めて定期受診や検診異常の診療をさせていただきました。救急外来では緊急性の有無を判断し、緊急性がなければ後日一般外来を受診するように指示します。そのため、緊急性のないものに対しては基本的に介入しません。たとえば貧血や肝機能異常に対してどのように精査を進めていくのか、高血圧や脂質異常、耐糖能異常など生活習慣病に対する治療介入やフォローアップはどうするのか、全くといって知識がありませんでした。一つ一つ教科書やガイドラインを調べながら診療していました。検診では血液検査、心電図、胸部レントゲンなど検査結果を確認して精査や治療介入が必要かどうか判断しなければなりません。見逃しがあってはならないと普段の診療以上に不安でした。訪問診療では看護師と2人で自宅や施設を訪問し、医師は自分ひとりなので初めはどうしたらいいのか戸惑いましたが、患者さんや家族、施設職員の方と接していく中で少しずつ求められているものがわかるようになりました。数回だけではその本質をつかむことはできませんが、貴重な経験ができたことは間違いありません。病棟でも外来でももちろん上級医のバックアップがありますが、基本的に一人で診療にあたることが多く、常に戸惑い悩んでいましたが、その分成長できたと思います。同時期に研修していた福岡徳洲会病院、湘南鎌倉総合病院の初期・後期研修医の先生にはいつも助けてもらってばかりで自分の不甲斐なさを痛感しつつ、たくさんの刺激をもらいました。休日を一緒に過ごすことも多く、たくさん笑って楽しい思い出もできました。特に高知方面へ遊びに出かけたときのことはとても思い出に残っています。偶然見つけて立ち寄った高知競馬で初めて競馬に挑戦し、とても盛り上がりました。桂浜で坂本龍馬像を写真に収めて、ひろめ市場で鰹の塩たたきを堪能しました。移動中の車内では学生生活の思い出やこれまでの研修で経験したこと、今後の目標などを語り合いました。また、宇和島の夏の風物詩である「うわじま牛鬼まつり」では宇和島徳洲会病院の一員として「宇和島おどり」や「牛鬼(全長5~6メートルの山車、鬼のような顔に長い首、牛の胴体、剣にも似た尻尾を持っている)」のパレードにも参加させていただきました。夜には「走りこみ」を見物して病院そばの堤防から花火を見ることもできました。公私共に大変充実した1ヶ月間でした。
2年次10月には熊本赤十字病院の同期研修医全員で宮城県仙台市にて開催された学会に参加しました。私は救急科で経験した「脳梗塞との鑑別を要した特発性頚髄硬膜外血腫の一例」について発表しました。救急科そして神経内科の指導医の先生には手厚くご指導いただき大変お世話になりました。発表当日も会場まで足を運んでいただき、つたない発表を温かく見守ってくださいました。同期が発表する姿をみることもできて良い刺激になりました。学会前後にはみんなで温泉やグルメなど観光を楽しむことができました。ニッカウヰスキー工場見学、松島クルージング、牛タン、寿司と無計画ながらも充実していました。普段なかなか同期で集まる機会はないため本当に貴重な時間でした。
熊本赤十字病院では様々な災害訓練に参加する機会がありました。5月には常備救護班訓練、11月には多数傷病者受入実働訓練、1月にはNBC訓練に参加させていただきました。常備救護班訓練では実際に被災地へ救援に行くことを想定し、救護服を着用して、救護所の設営から運営まで屋外でシミュレーションを行いました。物品や人材の配置など各グループで相違がみられ、それぞれに良いところがありました。一つの正解などなく、試行錯誤しながらよりよい方策を模索していくことが重要だと学びました。また、炎天下の中で暑さとの闘いもあり、冬であれば寒さと闘わなければならないことを考えると気候に対する対策も必要だと実感しました。多数傷病者受入実働訓練では発災直後の初動から診療まで院外の模擬患者を相手にシミュレーションを行いました。担当部署はそれぞれアクションカードを引いて無作為に振り分けられますが、私はトリアージエリア担当になりました。各部署で問題点と解決策について意見を出し合いますが、このエリアではトリアージタグの取り扱いや家族・マスコミ対応などトリアージ前トリアージ、トリアージ黒への対応に関して意見が出ました。これまでにも何度も訓練を重ねてきているはずですが、その度に新たな問題点が明らかになります。また、職員の顔ぶれも変わっていきます。実際の災害では何が起きるかわかりません。災害に想定外はつきものです。常に高い意識を持って訓練を継続していくことの重要性を認識しました。
実際の臨床と机上の学習との大きな違いは目の前に本物の「人」がいることです。大学での学習においては症状や検査所見を疾患名や治療方法と対応できるようになること、すなわち医学的知識と対峙することが大半でした。しかし、実際の臨床では「人」が相手になります。その人の年齢や生活背景、価値観によって、たとえ同じ症状であっても捉え方が変わり、同じ診断であっても治療方針は変わります。疾患や病態だけにとらわれることなく、本人の意思や家族との関わり、生活環境などを考慮した診療を行わなければなりません。教科書に書かれていることだけが正解というわけでは決してありません。病状説明においても言葉選びや間の取り方など配慮が必要です。特に生死に関わる重要な説明を要する場合には、いきなり核心をついた説明をすることが躊躇われる一方で、曖昧な説明のままでは治療方針決定の先延ばしや本人・家族の心の準備が遅れることにもつながります。適切なタイミングで的確な説明内容が求められます。私自身、説明にあたって戸惑い悩んだことや上手くできず反省したことがあります。初めて癌の告知をしたときは解剖や病態など医学的内容の説明が丁寧にできずに話の展開が少し早くなってしまったところがあり、指導医の補足を聞きながら自分の配慮が足りなかった点を反省しました。多くの先生方の説明を近くで聞いてきて参考になることがたくさんありました。
高齢者や終末期の患者を診ていく中で、その最期に立ち会い、死亡確認させていただくこともありました。人生の最終段階の医療について考えさせられる場面も多く、今後、社会全体で取り組んでいかなければならない課題の一つだと思います。私は高校3年生のときに同居している祖母を肝癌で亡くしました。最期は「痛い、痛い」と訴えるばかりで、その苦しんでいる姿が今でも目に焼きついています。息子である私の父は延命よりも苦痛を和らげてあげることを優先しました。当時はこの決断に対して何の考えも及びませんでしたが、今振り返ると、父の気持ちがよく分かります。祖母を苦痛から解放してあげたいというのはもちろん、家族として最期まで苦しむ祖母の姿は見たくはありません。身近な家族の死を経験したからこそわかることがあります。少しでも長く生きていてほしいという願い、最期は安らかに眠りにつかせてあげたいという思い。時にこの2つがぶつかることがあります。治療方針の決定において最も尊重されるべきは本人の意思です。しかし、事前の意思表示がなく、本人の意思が確認できない場合には家族に委ねられます。この場合、本人の意思よりも家族の希望が反映されてしまう懸念があるとともに、家族に混乱と重責を負わせることになります。自分自身の最期について考え、家族と話し合う機会を日常的に設けることが必要です。日本人は四という数字を日常生活で避けるように「死」を忌み嫌う気質があり、人生の最期について考える機会を拒んでいるところがあります。まずは死と向き合うことに対する意識改革が必要なのではないでしょうか。
最後に私が「医系技官」を志した動機についてお話させていただきます。これまで臨床実習や初期研修で医師はじめ医療従事者の働く姿を間近で見てきました。目の前の患者さんのために休日や夜間を問わず真摯に働くその姿に心から尊敬しました。自分自身も実際に医師として働いてみて精神的にも体力的にもつらい時期がありましたが、使命感や達成感に支えられて乗り越えてきました。医師はじめ医療従事者の弛まぬ努力と苦労によって今の医療が成り立っていることを痛感するとともに、彼らの負担を少しでも軽減したい、もっと働きやすい環境にしたいという思いが生まれました。また、日本の医療が抱える様々な課題に取り組むことで社会に貢献したいという思いもあります。自分にはまだまだ知らない医療の側面がいくつもあることは理解しています。あと数年、臨床経験を積んだ後にこの道へ進むことも考えていましたが、熟考の末に初期研修修了後に進むことを決めました。6年間の学生生活と2年間の研修生活を通してたくさんの方と出会いました。現場の声を反映できるような働きをしたいと思っているので、これまで築いてきた人とのつながりを大切にしていきます。今後ともご指導・ご鞭撻の程よろしくお願い致します。
最後になりましたが、熊本大学附属病院、熊本赤十字病院、宇和島徳洲会病院の皆様、たくさんご迷惑をおかけしたと思いますが、温かく見守り、丁寧にご指導いただき本当にありがとうございました。いつか皆様に恩返しができるよう精進してまいります。